貸衣裳屋牧師奮戦記

 

 高知クリスチャンセンタ― 牧師  福江義史

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 人生には三つの坂があるらしい。上り坂に下り坂、それにまさかの坂です。

 私がクリスチャンになるとは、その上に神学校で学び、牧師になるとは、さらに、教会を始めるとは、私を知る人がこの事実を知った時に、誰もが発する言葉が「まさか」なのです。

 それほど私には似つかわしく無い大逆転人生が展開されたのです。

 

 それというのも、高校生時代には暴力沙汰は日常茶飯事。喧嘩で胸をナイフで刺されて肺に達する傷で入院一回、警察に逮捕留置が一回。停学三回、退学一回というような武勇伝を残していたのです。

 

 その後、大阪の私立高校に運良く転校いたしましたが、そこでも何度か売られた喧嘩を買うというような始末でした。それでも、無事に高校を卒業して、大学に入学することができました。ところが向学心は元から全っくなく、4年間はジャズに明け暮れる日々でした。

 

 卒業後2年間、サラリーマン生活を送りました。

 

 一年は大阪の繊維商社の倉庫で出荷商品の荷造りに明け暮れ。その後一年は高知に帰り、両親の衣料品卸販売会社で小売店回りの仕事いたしました。

 

 両親の会社で一年を過ごしてみて、サラリーマンで一生過ごすより、独立して、一旗揚げようと考えたのです。ところが果たして何をしたらいいのか、思案の毎日です。

 

 いくつかの候補がありました。両親の会社で取り扱っていた紳士服の店。これは店舗の候補地まで決まっていました。大阪時代に関わっていたニット製造会社。これは実際に工場見学まで行って来ました。

 

 その他、スーパーマーケット。呉服屋。諸々でした。

 

 その思案中に母が趣味くらいにやっていた婚礼貸衣裳の仕事があったのです。

 

 

「貸衣裳屋創業」

 

 昭和45年4月、25才のことです。

 

 いつまでも、会社勤めでは先が知れていると思い、一念発起、貸衣裳屋で独立をすることにしました。

 

 その2、3年前のことです。母と姉が結婚式のために、ある老舗の貸衣裳屋さんを訪れました。店内は満員電車のごとく、ごった返しているのです。母は元々、呉服の商売をしていましたので、貸衣裳用商品の仕入れは簡単なもの

です。これは始めるべきだとすぐに京都で大量の商品を仕入れて来ました。

 

 それでも、商売は簡単ではなく、商品はあっても、お客がいない状況で、売上げは細々としたものでした。当時すでに、高知には貸衣裳の有名店が数件あって、お客様を囲い込みしていたのです。さらに,貸衣装店は雨後の竹の子のように,続々と新規開業ラッシュです。そこで、母は衣料品の取引先などで結婚がある時などに,時々利用してもらうくらいでした。

 

 その貸衣裳の仕事を受け継ぐことにしたのです。

 

 早速、高知の観光名所『はりまや橋』の直ぐ近くに店舗を準備し、開業いたしました。

 

 当時は団塊の世代がちょうど結婚適齢期を迎えた時代で結婚ブームでした。当社は数年遅れで,この業界に参入したのです。すでに,先輩の貸衣裳店が数社ありましたが,その中でも健闘して数年経たずに繁盛店の仲間入りを果たしたのです。

 

 私はサラリーマンになる前にはアルバイトもしたことはありません。人に使われるという経験が全く無いのです。

 

 「大学は出たけれど,職は無し」という時代です。仕方なく両親のコネで、大阪で取引先の商社を紹介してもらい、研修社員として入社することにしました。生まれて始めて人に仕えて働くことを経験したのです。

 

 そこで、学んだ大切なことは何をするにも一生懸命すれば、必ず何らかの得るものがあるという哲学です。

 

 この哲学は生涯、変わること無く今も持ち続けています。

 

 確かに商売が順調に行く時ほど幸せなことはありません。お金は使い放題。社員は命令だけしておけば、何でもしてくれる。しかし、ここに大きな落とし穴がありました。

 

 誰でも人生、少しうまく行くと、人間は高慢な者で,『何でもできる』と思い違いをしてしまうものです。

 

 事業を始めて、翌年に結婚をしました。子どもは長男、長女、双子の次女と三女と次々と生まれたのです。何とまるまる三年で四人の子持ちです。家内は相当苦労をしたと思いますが、こちらは全く家庭を顧みないだめ夫でした。今思い出しても、四人の子どもがどのように育ったか。いつお風呂に入れたか、いつおしめを替えてやったかを思い出すことができません。

 

 会社ではワンマン独裁者。家庭では我がまま放題の関白亭主。それで人生渡り通せたら大したもんです。神様に捕えられる時がそこまで来ようとしていたのでした。

 

「クリスチャンになる」

 

 30才の頃です。

 

 3才下の弟がアメリカ留学から、故郷高知に帰って来ました。

 

 彼はすでに、アメリカナザレン教団の神学校を卒業して、故郷伝道の野望に燃えて帰郷でした。

 

 私の家の近くに一軒の家を借りて、開拓伝道と称して、教会を始めたのです。

 

 おのずと私の所に来て、教会に来るように勧めるのです.「兄ちゃん、教会に来てや」その時は、「また」とか「時間があったら」とかと、適当に答えていました.教会や宗教には全くの興味も関心もありませんでした.私の関心は金儲けだけです。

 

 それでも何回か誘われたら、義理でも行ってやろうかということで、教会というものに出掛けてみました。当時は家の教会で2階の六畳間、二つが礼拝場になっていました。

 

 始めて訪れてみると、10名くらいの人が席に着いて礼拝が行われるのを待っていました。

 

 礼拝が始まって、最初に賛美歌を歌うというのです。当時の私は歌を歌うことができません。生まれながらの音痴でした。大学時代に軽音楽部に所属していましたが、友人が「福江の歌は、鼻歌も聞いたことが無い」と言われるくらいに歌は苦手でした。教会では歌を歌うのです。「あぁ、歌を歌うのか」と思いながら、聞いていました。次にお祈りです。弟のお祈りは随分長かった。あくびが出そうになるのをかみ殺していました。

 

 さらに説教です。確かに日本語を語っているには違いないのですが、全く理解不能な話です。その上に献金。これで金取るのか、これでは教会は繁盛せんわと納得して、もう二度と来ることは無いと固く決心をして帰路につきました。

 

 それでも。何日かすると弟が「あんちゃん、教会に来てや」と誘いにくるのです。

 

 そうしますと、幼い頃に兄弟喧嘩をよくして、いじめていたことを思い出し,罪滅ぼしにでも、教会に行こうかとなるのです.しかし、礼拝に参加しますと、最初と同じことです.もう二度と来るもんかと固く決意して帰るのでした。

 

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